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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

考古学・歴史日記02年前半


2002/06/11(火)サハラ砂漠のギリシャ美術

夜は講演会を聞きに行く。タイトルは「サハラ砂漠のギリシャ芸術」。
サハラ砂漠の岩窟壁画については、5月8日の日記に書いているので詳しくはそちらを参照してもらいたいが、数千年に及ぶ壁画が残されている。特にタッシリ・ナジェール地区の壁画群は世界文化遺産に指定されている。今日はその中でももっとも新しいほうの時代に属する「馬時代」のお話。講演者は僕の先生である。
「馬時代」といわれる一群の壁画は、テーマとして馬に曳かれた二輪車が好んで描かれている。その様式的な馬の描き方(四肢を前後に伸ばして飛んでいるように見える)は、紀元前1800-1200年頃のギリシャに栄えたミノア・ミケーネ文明の絵画にそっくりである。何らかの形で、ギリシャからこの地方にこの描法、ひいては馬車そのものが伝わった可能性がある。馬車自体はそれより少し前に西アジアかロシアの平原で始まったと考えられている。
この「馬時代」の掉尾を飾る壁画は、先生自身が22年前にタッシリ・ナジェールで発見した。これは完全に古典期ギリシア(紀元前5世紀頃以降)の四頭だて馬車(Quadriga)の絵画表現の型を真似たものである。その横にはヌミディア文字の短い文章が書かれている。
ここから先は先生は古代言語の専門家の意見も得て想像力を働かせ、ヌミディアの人マスタナバ(紀元前2世紀後半の人)が残した文章と馬車の絵ではないか、としている。このマスタナバはカルタゴ滅亡に加担したヌミディア(今のモロッコ・アルジェリアにあった王国)の王で、86歳で子供をもうけて怪人といわれたマッシニッサの子で、ローマに反抗してマリウス率いる討伐軍に滅ぼされた僭主ユグルタの父親である。ギリシャ文化に親しんでいたこの人は実際にギリシャでの戦車競技に参加して優勝した経歴を持っている。彼が王国辺境のこの地に来て野営した際に残した、と想像されるという。
昔はともかく(サハラ砂漠は3000年ほど前までは緑に溢れていた)、今は人も通わぬ、そしてギリシャから2000キロ、地中海からも1000キロ以上離れているこの地に、そのようなものが残されているとは、面白いではないか。人間はまさに「旅する動物」である。

アフリカはよく「暗黒大陸」と呼ばれ、19世紀に欧米人(偉人伝の常連のリヴィングストンなど)が来るまでは未開の地だと思われがちである。とんでもない誤謬である。
遅くとも紀元前6世紀には、フェニキア人は既にアフリカを周航していた。その少し前には、上に書いたとおりギリシャの人々も資源を求めて北アフリカを探検した可能性がある。ローマ時代にはエリュトラー(紅)海(=インド洋)に面する東アフリカは東西交渉の重要な交易拠点であった。アラブ人はサハラ以南の黒人王国と交易し、そこで産出される溢れるような黄金を入手し、同時にイスラーム教の布教も行われている(アフリカ大陸の大部分の国はイスラーム教国であり、スワヒリ語はその過程で生まれたアフリカの「共通語」である)。明の提督・鄭和(15世紀初頭)はアフリカ東岸に達している。「暗黒」どころか、アフリカのほとんどの部分は早くから(日本より早い!)「文明」に接して独自の文化を育んでいた。ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路「発見」がヨーロッパ人以外には取るにたらない一エピソードであるのと変わらない、欧米中心史観の偏見である。
しかし注意しなくてはならないのは、早い時期からアフリカは常に「文明」によって「周辺・辺境」の扱いを受け、原料の仕入先、もっと有り体にいえば、搾取される側に回っていたことだろう。黒人奴隷というとアメリカでの話(ストウ夫人「アンクル・トムの小屋」、アレックス・ヘイリー「ルーツ」など)が有名だが、黒人を捕らえてヨーロッパ人に売っていたのはアラブ人に使われた黒人であり、また黒人奴隷自体はローマ時代以前には既に存在し、西アジアには長い伝統があった。イブン・バットゥータ(14世紀の旅行家)のような、世界中を旅行し偏見の少ない人でさえ、非ムスリム黒人の無知や野蛮ぶりを伝えている。今も続くアフリカへの偏見は、実はイスラーム文明からの受け売りである。 


2002/06/13(木) 天王山

勝負事の帰趨を分ける重要なファクターを例える言葉である「天王山」というのは、天正10(1582)年6月13日(ただし旧暦)、つまり今からちょうど420年前に行われた山崎の合戦に基く故事成語であることはまあまあ知られているかと思う。この合戦は、貧農の出であった豊臣秀吉に、天下人への道を開いた。
この年の6月2日、天下統一を目の前にした織田信長は家老の明智光秀に京都・本能寺で殺された。当時備中(岡山県)の前線で戦っていた、同じく信長の家老の豊臣(当時は羽柴)秀吉は、情報を得るや光秀を討つべく軍をまとめて猛スピードで急遽近畿に引き返した。6月11日には既に大阪に達していた。
主君の仇討ちという大義名分のある秀吉方には、信長の三男信孝や同じ家老の丹羽長秀、さらには摂津(大阪府)の武将達も加わって意気が上がった。一方の光秀方に馳せ参じるものは少数で、姻戚関係にある細川藤孝や筒井順慶にも見限られた。この時点で政治的には既に勝負はあった。
6月13日、光秀は兵1万6000を率いて京都を発し、やや南の山崎(京都府大山崎町)の地に陣取った。淀川のほとりのこの地は、川原近くにまで天王山が迫り、川の対岸にも男山があり、狭隘な地形である。兵力で劣る明智勢が北上してくる羽柴勢(兵力およそ3万)を迎え撃つには格好の地である。
合戦は夕方4時に始まった。問題の天王山であるが、ここからは戦場全体を見渡すことが出来る。ここには前夜に秀吉方でこの地の出で土地に詳しい中川清秀が抜け目無く兵を配していた。光秀は天王山を奪うべく松田政近、並河易家などの部隊を向かわせたが、麓に辿りつくことも出来ず、あっけなく撃退された。明智方は先鋒の斎藤利三が奮戦したものの、押し寄せる羽柴勢の圧力にはひとたまりもなく、合戦はわずか二時間で終了した。
「天下分け目の天王山」というのは後世の講談から出来た言葉で、実際には実にあっけない合戦だった。もっともこの合戦で光秀が勝っていても、さらに北陸からは柴田勝家(信長の筆頭家老)、東海から徳川家康(信長の同盟者)が光秀を討ちに向かっていたのだから、どちらにせよ彼が天下を取るのは難しかっただろうが。
光秀は戦場から落ち延びたが、この日の夜中、落ち武者狩りの土民の手にかかって落命した。俗にいう「三日天下」であった。

山崎の合戦は、もう一つ有名な故事成語を生んでいる。日和見を意味する「洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込む」である。
信長配下で大和(奈良県)一国の領主だった筒井順慶は、本能寺の変に接し、一度は謀反を起こした光秀につくことを決めた。光秀は恩人でもあり、趣味も合って親しかった。ところが備中にいるはずの羽柴秀吉が予想を上回るスピードで近畿に向かって進撃していることを知り、急に態度を変えて中立の姿勢をとる。光秀は使者を遣わして味方に参じるよう促すが、順慶はのらりくらりと応じない。
たまりかねた光秀は6月10日、京都から大和に向かう洞ヶ峠(京都府城陽市)にまで赴いて順慶の来着を待った。しかし順慶は城にこもって動かず、三日後の山崎の合戦でも動かなかった。順慶のもつ一万の兵が光秀方に加わっていれば、山崎の合戦の帰趨も分からなくなっていたろう。しかし順慶は光秀の政治生命が既に終わっていることを見通していた。俗説では順慶自身が洞ヶ峠に陣取って、合戦途中で寝返って秀吉についたということになっているが、誤りである。
こうして順慶は領地を保全した。もっとも、秀吉は順慶のこの行動を喜ばず、筒井家は2年後の順慶の病死後、後継ぎが幼少であることを理由に領地を大幅に減らされることになる。


2002/05/19(日) 沖縄と東チモール

 今日は沖縄返還30周年式典があったとか。それと、東チモール独立記念式典が行われるという。この二つの出来事、一見関係なさそうにも思えるが、沖縄は明治初年までは「独立国」だったことを考えると、あながち無関係でもなさそうにも思える。

 15世紀に琉球王朝尚氏によって統一された沖縄は、中国(明)に朝貢して貿易を盛んに行い、いわゆる大航海時代の中、経済的繁栄を謳歌した。ところがその利に目をつけた薩摩の島津氏は、徳川幕府の黙認を得て1609年に侵攻、武力のほとんどない平和国家だった沖縄は、たった1500人の島津軍にあっけなく征服される(日本でも最強だった薩摩兵に空手では勝ちようも無い)。
 琉球王国は中国(清)への朝貢を続けて名目的には独立国であったが、その実、島津氏の監督下にあい収奪された。沖縄の特殊な位置は欧米列強も承知だったようで、ペリーのアメリカ艦隊は日本(浦賀)の後沖縄に立ち寄っている。あわよくばハワイ同様保護領にして、植民地にしようという魂胆であった。もっとも、対日交渉(江戸幕府)はうまくいったが、こちら(背後にいるのは島津氏)は思惑通りには行かなかったらしい。
 沖縄は明治新政府による廃藩置県で尚氏が退位させられて日本の一県として併合される(その際には清との係争もあった)。第2次世界大戦ではアメリカ軍との熾烈な地上戦の舞台になった。住民の軍事動員のみならず、軍部による強制的な集団自決や住民虐殺など、沖縄は依然として日本の「植民地」のような扱いを受ける(もとより沖縄県民は日本人として戦っていたのであるが)。その後はアメリカによる軍政を経て、1972年に日本に返還された。しかし未だに多くのアメリカ軍基地を県内に抱え、一人あたりの県民総生産は日本では一番低い。米軍基地には出ていってもらいたいが、その実経済の大きな部分を基地に依存している実情もある。
 
 東チモールは旧ポルトガル領である。一方1976年に東チモールを武力併合したインドネシアは元来オランダの植民地(1949年独立)である。
 多くの島々から成るインドネシアはもとより統一民族・国民国家ではなく、今の国家の枠組みはオランダ植民地の国境線に過ぎない。インドネシアとマレーシア(のマレー系住民。旧イギリス領)は使っている言語は同じである。同じオランダ領だった南モルッカ諸島はインドネシア(ジャワ島中心)とは別に独立したが、インドネシアによって武力併合されている(1950年)。だから今でも各地で独立運動が頻発している。同じ事は東チモール自体にもいえる(チモール島の西半分はオランダ領だったのでインドネシアに属している)。
 東チモールは国際社会の支援もあって独立は達成したが、これからの国家運営は大変だろう。なにせその経験もインフラもないんだから。インドネシアとの関係が否応無く国家の最重要問題になる。インドネシアにまたぞろ独裁者が出てきたら、その命運は風前のともしびである。

 国家としては、沖縄のほうがはるかに自然ななりたちで、早くから独自の国家形成を行っていた(まあ言語的には日本語の一方言であるが、それをいうならクロアチア語とセルビア語には方言ほどの差異も無い)。しかし現在は一方は日本の一県、一方は小さくとも独立国である。現在の国境や国家なんてものが、いかに偶然というか、恣意的・人工的というか、その時々の政治情勢に左右されていることか。

 ニュースでは東チモールを「21世紀最初の独立国」と報じていたが、果たしてこれからも独立国は増えるんだろうか?。現在も前世紀の植民地の名残りとして残っている地域を、以下に挙げる。
 ギアナ、ソシエテ諸島(タヒチ島など)、ニューカレドニア島、レユニオン島(以上フランス領)、プエルト・リコ、北マリアナ諸島、グアム島、サモア諸島(以上アメリカ領)、ケイマン諸島、フォークランド諸島、チャゴス諸島(ディエゴ・ガルシア島などを含む)、ジブラルタルなど(以上イギリス領)、アンチル諸島(オランダ)、グリーンランド(デンマーク)、西サハラ(旧スペイン領、モロッコが併合を宣言)。
 以上の中で独立を望んでいるのは西サハラくらいで、あとは独立することはデメリットのほうが大きいので独立運動の気配は無い(グリーンランドはデンマーク国会に議席枠をもっている)。一方で、今の国境がさらに細かく分かれる可能性もなしとはしない(独立パレスチナ国家、カナダのケベック州独立運動など、独立運動は枚挙に暇が無い)。
 「伝説」で虚構であるはずの国家は、今も健在である。それじゃ虚構じゃないか。


2002/05/08(水) サハラ砂漠の芸術

 今日の夕方、マールブルク大学の大学美術館の地下展示室で、「砂漠の芸術」展の開会式が行われた。学長や学部長、そして僕の先生である考古学の教授が挨拶に立った。この展覧会はマールブルク大学創立475周年、大学の考古学研究所や博物館が入っている建物の創建75周年事業の一環として行われるものである(同じ会場でははるかに大規模にカール・バンツァーという画家の展覧会が行われているが)。ま、それはどうでもよい。
 この展覧会では主にパネルで洞窟壁画の写真が展示され、さらに現地で採集された土器や石器なども展示されている。展示の目玉は一角に再現された洞窟だろう。学生たちの手作り展示だが、良く出来ている。

 北アフリカにあるサハラ砂漠は、地球上でもっとも大きい砂漠である。見渡す限りの砂漠と岩山、緑は全く見当たらない。この光景はパリ‐ダカール・ラリーの中継や映画「イングリッシュ・ペイシェント」「シェルタリング・スカイ」などでもよく知られているだろう。ラクダ遊牧民くらいしか住むことは出来ない。
 ところがその不毛な地にも、ちゃんと人間は芸術を残している。あちこちにある岩山の洞窟の壁に、赤い顔料で人間や動物の絵が描かれている。一見簡素で稚拙な絵だが、不思議な表現力と力強さに満ちている。もっとも有名なものはアルジェリア南部(リビアとの国境地帯)にあるタッシリ・ナジェール地区の壁画群である。これらは、今から一万年前から約二千年前(キリスト生誕前後)までの様々な時代に描かれたと考えられている。
 実はサハラ砂漠のある北アフリカは、一万年前はもっと湿潤で緑と野生動物に溢れていた。ところがその後乾燥化と湿潤化を繰り返し、紀元前1000年頃からは乾燥化の一歩をたどり、ついには今のような見渡す限りの砂漠になってしまったのである(似た例でいうと、鳥取砂丘も実は16世紀以降に出来た新しいものである)。
 この一万年にわたる洞窟絵画芸術は、描かれた主題や技法によって古い順に「バッファロー時代」(紀元前10000年~)、「円頭時代」、「牛時代」(紀元前4000年頃)、「馬時代」(紀元前1500~500年頃)、「ラクダ時代」(紀元前後)と分けられる。
 最初のは野生獣であるバッファローの姿を描いた時代である(今はもちろんこの地にはそんな大形野生獣は居ない)。続いての「円頭時代」とは様々な姿や動作(踊りなど)をした人間を描く時代で、円頭とは人間の頭を指す。よくUFO本に「古代人が描いた宇宙人の姿」として紹介される、角のようなものが生えた奇妙な頭をもつ人物像(みうらじゅんの「自画像」に似ている)は、この時代のもので、神の姿に扮した人物を描いたものであると考えられる。続く「牛時代」は牛の牧畜や村の様子が好んで描かれた。この時代から弓矢を使った戦争の場面も出てくる。
 「馬時代」は、外部(地中海方面)から伝わった二輪馬車が疾走する場面が描かれる。他には狩猟シーンが盛んに描かれ、動物の中にはイノシシ、キリン、野牛などがいる。この地域は人も通わぬ原始の地と思ったら大間違い、かなり早くから遠隔地との交通が行われていた。馬車の表現はギリシャのものとそっくりであり、おそらく模倣したものであろう。馬車の中にはギリシャの壷絵と全く同じものがあるからである(紀元前5世紀頃のもの)。この時代はそれまでの時代と違い、人物の頭部が棒状に表わされる。顔面へのタブー視などの理由が考えられる。
 その後は乾燥化が進んで馬が飼えなくなり、やはり中近東から伝わったラクダが画題の中心になっていき、やがてはオアシス以外に人も住まなくなり(交易で砂漠を越える人は絶えなかったが)、壁画を残す人もいなくなる。
 映画「イングリッシュ・ペイシェント」の中で、主人公たちが「泳ぐ人の像」を発見するシーンがある。あれと全く同じ物は無いが、似たような泳いでいるように見える横向きになった人の像はある。また大形の船の絵も存在し、水量豊かな川が流れていたことを示している。
 
 アフリカ(サハラ以南)というとどうしても「原始」「野生」といったイメージを持つし、さらには関心すら薄い。しかしこの大陸は人類発祥の地であり、またその大部分は「未開」でもなく、独自の文化・芸術を育み、常に「文明地帯」と交渉をもっていた(近代以降は不幸な形でが多いが)。僕自身、「アフリカには何も無い」と思いがちなだけに、この展示はその蒙を啓かされる思いだった。


2002/05/13(月) 仏教ネタ二題

 今日はすっかり快晴。日差しが強く、夏のような陽気だった。研究所はなんだか人気(ひとけ)が無かった。皆外で日光浴でもしてたんだろうか。
 仏教関係の海外ニュースが二件、目に付いたのでそれについて書いておく。今日のは日記というより自分のための備忘録的で、薀蓄臭いので、読まないほうがいいかもしれません。

 まずはイランでの話題。今朝日本と電話していて耳にしたニュースである。
 樋口隆康・京都大学名誉教授(東西交渉史・考古学)はイランを訪問し、同国南部のファールス地方で出土した仏像を確認した、という。仏像の出土地としては今のところ最西端になる発見で、仏教は「東伝」のみならず、「西伝」もしていたことを裏付ける貴重な発見である。
 推測だが、イランの学者が「何じゃこりゃ?」と言っていたのを、たまたまイランを訪問していた樋口氏が「こりゃあ仏像だよ」と断定したのが経緯ではないだろうか。画像が無いので分からないが、図像表現に仏陀の徳を表わすような表現があるとの事である。もっとも、シリアのほうには観音像と見間違うような女神像とかがあったりするので、正直言って「ホンマかいな」というのが今のところの感想である。
 仏像というと、すぐにガンダーラ仏を思い出す。釈迦(ゴータマ・シッダールタ、紀元前386年頃没)が今のネパールで始めた仏教は、じわじわとインド全土に伝わっていった。その中でもインド北西部(今のパキスタン)からアフガニスタンにかけてのガンダーラ地方では、西からやってきたヘレニズム(ギリシャ)美術と融合してガンダーラ仏像美術を生み出した。紀元(キリスト生誕)前後のことであろうと思われる。
 そもそも仏教は思想であって、崇拝すべき対象物(偶像)などは必要無かったはずであるが、神を人間の姿で表わすのが好きだったギリシャ人の工人にはそれが我慢できなかったのだろう。神ではなく、修行したり、悟りを開いた瞬間の釈迦の像である。初期の仏像はインド人というよりギリシャ人を見るような風貌である。表現も在来のオリエント美術やギリシャ美術から取り入れたものが多い。
 今までは仏教がインドより西方に伝わったのはこのガンダーラ、もしくはせいぜい中央アジアのバクトリア地方までであろうと思われていた。その様子は紀元前2世紀のバクトリア王・メナンドロスとナーガセーナの対話「ミリンダ王の問い」として残っている。中央アジアでは仏教遺跡の発掘も盛んである。
 イラン高原には当時ゾロアスター教やマニ教、ミトラ教など様々な宗教が花開いており、宗教の発信地でこそあれ、外来の仏教の入る余地はなかったんだろう、と思っていた。同様なことは、キリスト教がなぜパレスチナから東方へではなく、西方のヨーロッパ方面にばかり伝わって行ったかという疑問への答えにもなりうると思ったんだが。どうやらこの単純な考え方は改めないといけないらしい(もっとも、キリスト教も景教という形で「東伝」するんだが)。
 イランというところはやはり奥が深そうである。

 さらば、さらば、神々の国よ   炎の信仰が、選ばれし者を集める処
 さらば、水晶の空、イラン、聖なる大地   さらば、さらば、もう二度と会うまい 
            
                J・A・ド・ゴビノー(19世紀フランスの作家、人種主義の祖)

 仏教ネタ、次ぎは釈迦の故国、ネパールの話題。急に生臭くなる。
 政府軍による掃討作戦にもかかわらず、活動が活発化している同国の毛沢東主義共産ゲリラが、同国南西部にある大学を襲撃し放火した。同大学に所蔵されていた五万点に及ぶサンスクリット語(インドの古代言語。仏教の原典の多くはこの言語で書かれている)文献が焼失し、その損害ははかりしれないという。僕の知ってるインド学専攻のI博士が聞いたら、身もだえして怒りそうな話題である。
 いまどき毛沢東思想(急進的な共産主義思想。紅衛兵運動やカンボジアのポル・ポト派を想起されたし。現在の中国共産党は否定している)が跳梁跋扈するとは、20世紀の亡霊をみるような気分がする。この思想では「宗教は毒である」と規定しており(そういうこというこの思想こそ、まさに宗教なんだが)、またネパールではサンスクリット語は上流階級の必須教養らしく、両方を否定する意味でこの暴挙に及んだのであろう。
 そういや去年の今ごろ(6月)、ネパールでは不可解な事件が起きている。ディペンドラ皇太子が王宮で銃を乱射、父親のビレンドラ国王や王妃ら数人をを射殺して自分も自殺を図り、脳死状態のまま王位を継承し2日後に死亡。叔父(ビレンドラ国王の弟)が即位しギャネンドラ国王となった。仏教国ネパールらしからぬこの血なまぐさい事件では様々な憶測が流れ(真犯人は別に居たとか、ギャネンドラ国王自身が黒幕、さらには皇太子はコカイン中毒だった、などの憶測)、ネパールは一時騒乱状態になった。ギャネンドラ現国王が民主化反対派で国民に人気が悪いことも、今の共産ゲリラの活動活発化に結びついているらしい。
 
 ヘレニズムと仏教の融合を象徴するガンダーラ仏の代表格・バーミヤーンの大仏は昨年3月、アフガニスタンのターリバーン政権によって破壊されている。今回仏像が発見された、宗教の花開く地・イランでは比較的狭量なイスラーム原理主義が幅を利かせている。釈迦の故郷ネパールでは、宗教を否定する毛沢東主義が荒れ狂い、皇太子がランボー気取り(?。目撃情報による)で両親を殺害するという修羅場が起きている。
 古代人のおおらかさを、現代人が少しでも取り戻してくれるといいのだが。

 長い日記になってしまった。

(5月17日追記 その後イラン当局は仏像出土の事実を否定、この仏像はアフガニスタンからの密輸品であろう、とした。上の記事はどうも朝日新聞の勇み足だったらしい。当の樋口隆康氏も「どうもあれはアフガニスタンのもののようだ」と言ってるとか。鑑定の間違いどころか「ねつ造」だったのね。はらほれひらはれ)


2002/02/15(金) 東京駅復活

 今日は快晴だが寒い日だった。一日帰国に向けての準備。今回は2ヶ月も日本に居るので準備も大変だ。

 東京駅が戦災前の姿に復元されるらしい。東京駅は当時の建築学界の大御所、辰野金吾によって設計され(当時は「中央停車場」と呼ばれていた)、1906年に着工、1914年に完成した。アムステルダムの駅を手本とし、擬ルネサンス様式の堂々たる近代建築だった。当時は丸いドームの屋根をもつ3階建ての建物だった。ここでは「平民宰相」(実際は南部藩の士族出身だったんだが、薩長閥以外では初の首相だったのでこう呼ばれた)原敬や浜口雄幸が狙撃されるなど歴史の舞台にもなった。1945年の東京大空襲で3階部分とドームを焼失。戦後すぐ修復されたが、ドームは角張ったものに変わり、三階も復元されなかった。今はホテルなどに使われている。
 今回は東京駅のみならず、八重洲口の無味乾燥の駅ビル(大丸などが入っている)も撤去され、再開発されるという。資金のほうがやや心配だが、いい計画ではないかと思う。僕は日本の大学にいた頃東京駅をかなり頻繁に利用したので、あそこが整備されるのは感慨深いものがある。八重洲口はごちゃごちゃして狭苦しかったからなあ。

 僕は日本の近代建築が好きだ。「西洋の模倣・猿真似ではないか」と言ってしまえばそれまでだが、日本の近代の苦闘を象徴している物的証拠ではないかと思う。ドイツ(多くは戦災にあって再建されたものだが)やイギリス、フランスにある近代建築とはまた違った意味をもつものだろう。
 といって、あまり詳しいわけでもないが。今まで見たのは東京駅を始めとして、旧法務省(東京・霞ヶ関)、表慶館(上野の東京国立博物館内)、水路閣(京都・南禅寺境内)、各地に残る学校などである。そういえば僕が通っていた小学校も昭和10年だかの建物だった。空襲のときの爆弾が命中した跡なんてものもあったっけ。去年廃校になり、建物ももう取り壊されていると思うが。
 何だか尻切れトンボだけど、今日はこれでおしまい。


2002/02/18(月)「トロイア戦争」は続く

       土曜日曜とチュ―ビンゲン大学でトロイアに関する討論会が行われた。これに関する記事が結構あちこちの新聞に載っていた。
 先週あたりの日記にも書いたが、トルコの北西部の海岸に位置するトロイアはドイツ人シュリーマンによって最初に発掘され、今はチュ―ビンゲン大のM・コルフマン教授によって発掘が続いている(この人は去年の朝日新聞日曜版にも冷徹な学者としてカッコ良く紹介されていた)。
 問題となっているのはトロイアのⅥ層とⅦ層の評価である。これらの層は後期青銅器時代、すなわち紀元前1300年頃から1100年頃にあたり、不死身の戦士アキレウスや「トロイアの木馬」で知られるホメロスの叙事詩「イリアス」に謳われるトロイア戦争は、この時期に相当すると考えられている。シュリーマンが発掘した遺跡はヒサルルクという、さほど大きくも無い、城壁に囲まれた人工の丘だった。コルフマン教授も最初は「当時はこの集落はそれほど大きいものではなかったろう」としていたらしい(「海賊の根城」という説もあった)。トロイア戦争が歴史上の事実を反映したものかどうかも疑われた。
 ところが1993年にこの丘の外側に堀らしきものが発見され、コルフマン教授は評価を一変、トロイアは従来思われているよりもはるかに巨大であり、この遺跡こそホメロスの謳った都市トロイアそのもので、後期青銅器時代の一大都市であった、と唱え始めた。その交易網は遠くヨーロッパや黒海に及び、またヒッタイト帝国と条約を結ぶほど国際的にも重要だった(その記録に出てくる「ウィルサ」こそトロイアだという)、と。
 それってちょっと拡大解釈しすぎじゃないかなあ、という小さな声がぽつぽつ出ていたところ、なんとコルフマン教授の同僚で言語学者のフランク・コルブ教授が「トロイアは中規模な農耕集落に過ぎず、コルフマンの描く像は絵空事だ」と昨年マスコミにぶちあげた。先週僕らも見に行った展覧会「トロイア 夢と現実」の時期と重なったこともあり(半年で観客50万人を動員した)、ドイツでは大きな関心を呼んだ。
 
 それで今回の討論会になったわけだが(会場は前例のない満員状態だったという)、結局特に意見の一致も、議論の深化もなく、お互いの意見を述べつづけるだけで、議論は平行線。「剣闘士(グラディエーター)の決闘みたいだった」という感想があったという。まあそりゃそうでしょうな。発掘している側になってみれば、自分の遺跡が「たいしたことの無い遺跡だ」と言われりゃ頭にも来るだろう。
 今はボンで行われている展覧会を見た感想から述べると、あれはいわばコルフマン教授自身の「夢」を展示しているにすぎない。確かに彼の発掘がトロイア像を変えつつあるかもしれないが、やはり同業者からは「先走りすぎじゃないか」という意見が多い。単なるやっかみではない。件の「堀」だって見ようによってはその辺の農村にある、ただのイノシシ(害獣)除けの溝にも見えるし、発見される建物もごつい城壁を除けば農村にあるのがふさわしいひなびた建物が多いという。僕は去年トロイアの遺跡を見に行ったが、当時の城壁はたしかにものすごくごつい。これなら大都市があっても不思議は無いなと素直に思ったりしたものだった。
 コルフマン教授に対する攻撃はコルブ教授だけではない。地質学者のE・ツァンガー氏もかなり前からコルフマン叩きをしていた(彼の本は日本語にも訳されている)。彼によると、トロイアが欧亜にまたがる巨大な都市だったというアイデアはもともと彼のもので、件の堀の発見も専門家の立場から予言していたという。
 コルフマン教授が敵を作りやすいのか、それともトロイアという遺跡は、冷静なはずの学者をも熱くさせるのか。まあ陰湿で惨めだった日本の石器ねつ造事件よりは景気のいい話ではある。ドイツと日本の国民性の違いかな。

 もっとも、上記のヒサルルクの丘がホメロスの謳ったトロイアだったという直接の証拠は実はまだない。後世(ギリシャ人・ローマ人)の人たちがそこをトロイアと思って奉献した神殿の跡があったり、地理的な条件がトロイアの物語に合致するというだけの話である。


2002/02/06(水) 草原の黄金文明

 今日は夕方講演会を聞きに、研究室の仲間たち10人以上と連れ立ってフランクフルト大学に行った。
 講演会が行われた建物は最近使われるようになった「新校舎」だが、いやに壮大である。神殿を思わせる2階建ての石造建築を取り囲むように、扇形のプランをもつやはり巨大な大理石の建物が建っている。何だか社会主義かナチスの建物みたいだな、と思ったら、本当にナチス時代の建物だった。飾りっけは全く無い無骨な建物だが、とにかくでかくて印象的である。1930年代の社会主義(国家社会主義)の遺産である。モスクワにあるロシア外務省やブカレストの「国民の家」(という名前だが、実際は独裁者チャウシェスク大統領の私物だった)、そして北朝鮮のピョンヤンを飾るモニュメンタルな(しかし粗雑な)建物群などの系譜の劈頭にあるものだろう。
 軍か何かの建物として使われ、第二次世界大戦でも破壊されず(郊外にあったからか?)、戦後は在独アメリカ軍の司令部か何かになっていたが、冷戦終結でアメリカ軍が撤収したため、数年前からフランクフルト大学の「新校舎」として使われることになったという。ナチスの建物を使うのはいかがなものか、という議論もあったらしいが、確かにこの建物、壊すと余計に金がかかるだろう。

 おっとっと。講演会がメインの話題だった。今日の講演のテーマは「アルジャン古墳の発掘」。ドイツ隊によって行われた、シベリア(ロシア連邦・トゥーバ自治共和国、モンゴルとの国境地帯にあたる)にある紀元前5世紀頃の古墳の発掘の報告である。
 何も無いだだっ広い草原に、ぽつりぽつりと人工の丘がある。その多くはかつてこの地に栄えた遊牧騎馬民族の古墳である。その内の1つをこの数年間ドイツ隊が発掘調査し、昨年の調査では、地下の木で出来た墓室(木も腐らずに残っていた)から、男女1組の遺体と、9000点に及ぶ金製品(小さな金の飾板5000個を縫い付けたマント、金の首飾り、金で飾った武器、金の把手のついた容器、金の飾りのついたベルトなどなど)が発見された。
 ロシアの古都サンクト・ぺテルブルクにあるエルミタージュ美術館には「ピョートル大帝コレクション」と称する古代の黄金製品のコレクションがある。それは中央アジアやウクライナで盗掘されたスキタイ文化(後述)の遺物だが、シベリアではもちろんのこと、科学的な発掘調査でこれだけのスキタイ文化の金製品が発見されたのは、前例が無い。大発見と言えるだろう。
(スキタイ文化に関しては、センセーショナルという点では、1940年代にソ連によって行われたパジリク古墳の発掘のほうが上かもしれない。アルジャン古墳からそう遠くないこの古墳の発掘では、永久凍土に氷漬けになった被葬者や馬、普通ならば腐ってしまう毛織物などが発見されている)。

 「黄金文明」といってすぐ連想されるのは、古代エジプトやインカ文明だろう。しかし、それに遜色の無い黄金文明が、一見何も無いユーラシア北部の草原地帯(地平線のかなたまで見渡す限りの草原!)に存在した。それがスキタイ文化である。
 紀元前800年頃から、西はハンガリー平原から東は満州(「中国東北部」)まで連なるユーラシア北部の広大な草原地帯では、遊牧騎馬民族の活動が盛んになる。騎馬という当時としては圧倒的な軍事力を使って、中国や中近東などの古代文明の脅威となった。その代表的なものがスキタイ文化である(中国史でおなじみの「匈奴」も、スキタイ文化の後継者の1つである)。
 スキタイ文化は基本的にはテントで移動生活を営む遊牧民の文化なので、神殿や宮殿といった巨大な建築物はほとんど残していない。しかしその首長の墓には多くの馬や人が殉葬され、精巧な工芸品や毛織物が副葬された。彼らは特に金細工が好きだったらしく、全身を黄金で飾った衣装なども発見されている。例えて言えば、マイホームを持つことや貯金に励むよりも、ブランドものの装身具・衣類やベンツなどの高級車を持つほうに力をいれたということか。

 彼ら自身は文字を持たなかった。そのため彼らに関する記録は農耕文明に属するギリシャ人やローマ人、あるいは中国人が残したものしかない。農耕民にとって、馬に乗ってやってくる遊牧騎馬民族は珍奇でもあり、何より脅威だった。そして彼らを農耕を知らない「未開」で「野蛮」な民族である、と定義した。そういった先入観は、実に20世紀の半ばまで、歴史・考古学研究者をも支配することになる。
 羊ばかり相手にしている遊牧民にあのような精巧な工芸品が作れるわけは無い、おおかたギリシャやペルシア、中国人の職人を拉致したり、あるいは特別に注文したりして作られたものだろう、という意見がかつては強かった。スキタイの黄金遺宝が多く見つかるウクライナの沿岸部にはギリシャ人が植民地を作っていたし、実際ギリシャ系の遺物(陶器など)が出てくる。
 ところが、今回のこの発見はウクライナからも遠く離れており、またギリシャ系の遺物は全く見られない。一方、中国の影響もほとんど見当たらない。今日の講演では同時に、同じ時代の定住的・計画的な集落の遺跡の存在も報告されたが、ひとくちに「スキタイ人」「遊牧民」といっても、様々な職種(農民すらいた)や人種が居たことは容易に想像される。そもそも遊牧民の世界は出自よりもむしろ、技能・実力第一主義なのだから。「国境」も「民族」も存在しなかった(じつはそれらはヨーロッパ近代の産物に過ぎないのだが)。
 スキタイ文化の前身のカラスク文化(紀元前二千年紀末)では、農耕も行われた痕跡がある。遊牧民というのは未開というよりもむしろ、牧畜に特化したすぐれて専門的な職業集団及び生存戦略なのである。もちろんその背景には、農耕社会の生産力増大という要因があるのだろうが。

 この遊牧民たちが、世界史で果たした役割は計り知れない。「シルク・ロード」という言葉に代表される、ユーラシア東西の文化交渉は彼らの存在抜きには考えられないし(その機動力は巨大なユーラシア大陸をもひとまたぎするものだった)、その活動はしばしばいわゆる「文明世界」に大転換をもたらした。「ゲルマン民族の大移動」を引き起こしたフン族(5世紀)、ユーラシアの大部分を支配下に収め、世界を狭いものにしたモンゴル帝国(13世紀)がその代表的なものだろう。
 実のところ、自分の世界に閉じこもりがちな農耕文明に地理的情報を教え、外向的にして、さらなる「文明世界」の拡大に導くのが、遊牧民の役割だった(遊牧民にとってはあずかり知らぬことだったろうが)。
 「東方見聞録」を著したマルコ・ポーロが、モンゴル帝国の保護の下に見聞を広めたことは象徴的である。「ジンギス・カンなくしてコロンブスなし」というべきか。ま、世界が一つになって良かったのかどうかは知らないが。
 一方、「中国」というまとまりも、実は外に遊牧騎馬民族があってこその「共同幻想」だった。現在の中国政府が不可分の自国の領土と主張する台湾・新彊・中国東北部(満州)・内蒙古・チベットなどは、実は遊牧騎馬民族の征服王朝である元(モンゴル)朝や清朝によって「中国」に組み込まれたものだった。

 スキタイやモンゴル帝国は、その地理的な同一性や、軍事力重視という性向から、しばしばロシア帝国やソビエト連邦に例えられてきた。確かに、一時的な覇権、そして後世に形而上的なものを何も残さなかった、という点でそういう比喩も出来るだろう(もっとも、近代化の名の下に遊牧民の定住化政策を推し進め、草原を農地に変えていって、スキタイ以来の遊牧騎馬民族を絶滅させたのは、他ならぬロシア・旧ソ連だったのだが)。
 この比喩を好んで使ったのはアメリカの学者だったが、今のアメリカがそうではないと、誰が言えるだろうか。


2002/01/29(火) Umm el Agarib

 夜はイラクの考古学者による発掘に関する講演会。イラク南部、ナシーリヤ近郊にある、ウンム・エル・アガリブ(アラビア語で「蠍の母」という意味。どういう意味だ?)という紀元前2500年頃のシュメール文化(メソポタミア文明)の遺跡である。巨大な宮殿の跡が発掘されている。
 イラク南部は湾岸戦争後、無政府状態になり、貴重な文化遺産が略奪されたり盗掘されたりしている。今日の発掘はそんな中バグダッド市の考古局により行われたものである。遺跡にはあちこちに盗掘の穴があり、遺跡の番人は常に自動小銃で武装していなければならない。
 まわりは一面の沙漠、というか荒地である。あたりは土色で、木は一本も生えていない。当時の建築物も全部日干しレンガ(泥レンガ)で出来ている。資源といえば、土と羊、そして小麦だけである。世界最初の都市文明が興った当時は、少しは違う景観だったんだろうが、よくもこんな所に文明が生まれたものだ、と思う。いや、日本やヨーロッパ、あるいは亜熱帯地方のように、資源(木や水、食料など)に恵まれていると却って文明が興るのが遅くなるんだろう。
 この一見不毛な、しかし一度水さえ確保できれば(今は近くに水は無い。ユーフラテス河は流路を常に変えつづけてきた)、理想的な農地となる地に、今確認される限りでは世界最古の文明が興った。シュメール人たちは都市に集住し、物資管理のための文字や複雑な社会システム(「国家」)を発明し、羊毛などをはるかシリア、イラン方面まで交易した(そして今はシュメール人の跡形も無い)。今我々が当たり前のように受けている「文明の恩恵」の多くは、この見渡す限り土色の(そして今は湾岸戦争の際使用された米軍の劣化ウラン弾による汚染疑惑のある)土地に生まれたのだ。
 でもこういう所で何ヶ月も発掘するのは嫌だなあ。

 講演会、懇親会のあとは、研究室の仲間たちと新しくできたカクテル・バーに飲みに行った。貴重な古代遺跡あふれるイラクの荒野よりは、こっちのほうがいい。僕もすっかり怠惰になったもんだ。


2002/02/02(土) Niederlande

 今日オランダのアレクサンダー皇太子の結婚式が行われ、各国から1600人あまりが参列したという。ドイツでもこの話題が結構扱われており(ドイツには今は王室がないので、他国の王室の話題が結構好きだ)、大衆紙Bild(ビルト)の一面は連日この関連記事(実にくだらない新聞だ)、僕が聞いているラジオ局WDR2も一日中オランダに関する話題を取り上げていた。
 オランダでは三代連続で女王が続いているそうで(まるでどこかの皇室の将来を見るような・・・)、アレクサンダー皇太子(34歳)が即位すれば久々の男の王になるらしい。結婚相手のアルゼンチン人マキシマさん(30歳)とはニューヨーク滞在中に知り合ったそうだ。
 ところがこのマキシマさんの父親は、かつてアルゼンチンの軍事政権で農相を務めたそうで、そのため反民主主義に加担した人物の娘が将来の皇后にふさわしいのか、という議論がオランダで巻き起こったという。今日の結婚式にも、花嫁の両親は招待されなかったという。理屈はわかるけど、ちょっとひどすぎやしませんか。
 
 日本ではオランダの地方名から来た「オランダ」という通称が通用しているが、僕の居るドイツでは今日の日記タイトル、すなわち「低い国々」と呼ぶのが普通である。でも「オランダ人」と言うときは「ホレンダ― Hollaender」という。
 オランダ語はドイツ語に極めて近い。というか、言語学的にはドイツ語方言の一部に過ぎないらしい。オランダ人はこういうとすごく嫌がるらしいが、実際に、ドイツ語が出来ればオランダ語は少なくとも何となく読めば意味は分かってくる。ドイツ語の定冠詞(der, die, das)を簡単にして、濁音を減らせば(何となくホワホワした感じに聞こえる)、オランダ語っぽくなる。英語とドイツ語の中間の言葉になるのか。実際、ここヘッセン州の方言は「高地ドイツ語」(ドイツ語の標準語)よりもむしろオランダ語に近い。イギリス人が「Dutch」(語源はドイツ人を示すドイチュDeutschらしい)とオランダ人とドイツ人をごっちゃにしたのも分からないでもない。
 ドイツ人にとってオランダ人は滑稽な隣人らしい。今日のラジオ番組もオランダ人をからかう内容(オランダ語やオランダのチーズなど)が多かった。もっとも、オランダ人にとってはドイツは恐るべき隣人だったんだろうが。

 日本にとって、オランダが唯一の西洋への窓だった時代がある。
 鎖国をしていた江戸時代である。「鎖国」というといかにも孤立していたようだが、実際には少なくとも為政者と一部の学者はオランダから西洋事情や文物を吸収していた。西洋事情を知るための第一外国語はオランダ語だった。当時の最先端の学者たち、例えば杉田玄白、前野良沢、緒方洪庵、福沢諭吉、村田蔵六(大村益次郎)、みんなオランダ語を学んでいる。日本で最初の正式な外国人教師は長崎医学校のポンぺ・ファン・メールデルフォールトだった(有名なシーボルトはドイツ人だが、彼の鳴滝塾はあくまで私塾である。彼のオランダ語がおかしい、と日本人に指摘されると、「私は山オランダ人なのでなまりがあるのです」と言い訳したらしい)。
 日本各地の江戸時代遺跡の発掘で、しばしばヨーロッパ系の陶器やガラスが出土することがある。これらは全てオランダ人がもたらしたものだ。一方、ヨーロッパ各地の宮殿を飾った、「白い黄金」と呼ばれ珍重された日本や中国の磁器も、オランダ人がもたらした。日本との貿易を独占的に行っていたオランダは莫大な富を得た。そのため日本にも親切だった。幕府への態度はひたすら下手(したて)、英国の中国侵略が始まったアヘン戦争(1840年)の時はわざわざ警告の親書を徳川幕府に届けている。
 1854年にアメリカの圧力で日本がなし崩しに開国すると、オランダの特権はなくなった。日本は「教師」を大国のフランスやイギリス、そして新興のドイツに切り替え、オランダに対する情熱は急速に薄れて行った。
 あまつさえ、1942年、太平洋戦争の開戦に続いて日本はオランダの植民地であったインドネシアを攻撃・占領した。このためオランダ人の対日感情は、特に戦争を知る世代においては最悪だろう。1970年に前の天皇がオランダを訪れた際は日の丸を燃やす抗議活動が相次ぎ、また日本軍の元捕虜による損害賠償請求訴訟の動きも絶えない(ちなみに広島では200人あまりのオランダ人捕虜が原爆の犠牲になった)。もっとも、オランダは連合国では最多の250人あまりの日本軍人をB・C級戦犯として処刑している。国家間賠償も行われたんではなかったかな?
 僕の祖父は1944年に徴兵されてベトナムに行き、連合国の捕虜と接したことがある。彼の談では、イギリス軍人は捕虜になっている間も堂々としており、戦後立場が逆転しても日本兵に辛くあたることはなかったが、オランダ人は捕虜になっている間はへこへこしていたが、立場が逆転するや日本兵を虐待した、といってオランダ人を嫌っていたなあ。
 現在は両国は経済を中心とした交流が盛んである。そういや僕がここでよく食べる日清のインスタント・ラ…


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